栗原康『村に火をつけ、白痴になれ』

岩波の本だから、固い本だと思い込んでいた。しかし、存外軽い語り口でまずびっくり。ソフトカバーだし。私は外にあんまり出られない生活をしているので、本は殆どAmazonブックオフ・オンラインで買う。ハードカバーが来るもんだとばっかり思っていたのだ。とにかく、最初は柔らかくてびっくりする。どうでもいいけど、高橋源一郎のエッセイの文体に似てる。独特な仮名遣いも含めて。
しかし、内容が必ずしも分かり易いという保障はない。世の中は、私の想像以上に近現代史を知らない。去年、早川タダノリの『「日本スゴイ」のディストピア 戦時下自画自賛の系譜』(青弓社)を読んだ時にそう思った。早川が悪いのではない。国体思想や天皇機関説統帥権干犯等を知らずに早川の本を褒める世間に腹が立った。
私がこの本の時代を多少なりとも知ってるのは、主に関川夏央谷口ジロー『「坊っちゃん」の時代』5部作(双葉社)を読んだことによる。中でも主義者に関しては『明治流星雨』によるところが大きい。あと、基本的な話だが、瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(KADOKAWA)という、野枝伝の前半も読んでいる。
この本なら例えば次々と出てくる人名すなわち、大杉榮を筆頭に、幸徳秋水荒畑寒村、山川菊榮、あるいは内村鑑三バートランド・ラッセル、野上彌生子、内田魯庵クロポトキン等の名前をどの程度知ってるかが鍵になる。私は今挙げた人たちの本は全部持ってる。ほぼ未読だけど。クロポトキン幸徳秋水訳だ。ついでに言うと、私は保田與重郎小林秀雄福田恆存江藤淳大岡昇平阿川弘之坪内祐三等もたくさん持ってて、読んだ数なら圧倒的にこちらの方が多いから、左翼びいきなわけでもない。平野謙が好きだけども。
で、読み進めて行くのだが、だんだん野枝に苛つき始める。理由は簡単。野枝がめちゃめちゃわがままだからだ。自分のしたいことはとことんやる。でも、それ以外は無理。誰だってそういう傾向はあろうが、野枝はそれが極端だ。例えば、大杉と共に労働問題をもっと深く掘り下げたいと、彼らは労働者の多いところに引っ越す。そして、労働者の待遇に心を痛める。なのに、野枝は労働者の奥さんたちと井戸端会議が出来ない。一緒の銭湯に入れない。なめとんのか。
いろいろな疑義が頭をもたげる。野枝は恋愛の自由とか性の商品化とか言ってるけど、それってモテる人の論理じゃね?実際、大杉も野枝もモテるのだ。幸徳秋水と管野須賀子もモテてた。
現代では非モテの人は恋愛や結婚を義務化しろという。芸人だと、オアシズ光浦靖子ブラックマヨネーズ吉田敬。この間見たテレビでは東大生も言ってた。彼らには自由恋愛とは夢のまた夢。我々にも権利を寄越せ。気持ちは分かる。だって私も非モテだから。
恋愛が自由なら、強姦の自由やストーカーの自由も認めなくてはならない。もちろん、返り討ちにして殺すのも自由。無政府って、そういうことでしょ?
労働問題も同じこと。世の中にはあらかじめ持てる者と持たざる者がいる。労働問題で持たざる者に与するのに、恋愛はモテる者の味方?実際、非モテは性の商品化すら出来ない。早い話、ブスでは売春すら難しい。
彼らの問題設定自体が間違ってるんじゃないか。だって女性問題はこの100年一切進展していない。日本だけじゃない。世界規模で。『贈与論』や『悲しき熱帯』等が頭をかすめる。
非モテらしい歪んだ考えを抱き、イライラしながら読み進めていく。絶対に貶してやる。貶す気まんまんだ。頭の中ではすでに予定原稿が出来上がりつつある。
ところが。
終りに近づくと様子が変わってくる。具体的にはP120以後だ。ミシンになりたい?フレンドシップ?何それ?時代は関東大震災目前。それは、野枝がもうすぐ殺されることだと、私たちは知っている。
私は鬱病なので、夢や希望が持てない。常に絶望と共にいる。それでも、これなら可能かもと思えた。野枝すごい。
私の数少ない元カノはソープ嬢だった。彼女とは身体の相性は非常に良かったが、結局意見が対立して別れてしまった。その時にこの本を読んでいたら、どうだったろう。やっぱり、駄目か。
私が『美は乱調にあり』を読んだのはその彼女の家だったことを思い出した。