いまさらサンデルを読む

いまさら、マイケル・サンデルの本を読んでいる。

 

ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業〔上〕(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業〔上〕(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

私は哲学好きの哲学音痴だから、このくらい噛み砕いてくれるとありがたい。カントもロックもヒュームもミルもアリストテレスも、当然知ってるけど、読んだことはない。私の部屋には哲学関係の本が三桁のオーダーであるが、たぶん読まないで死ぬと思う。

 

サンデルを読もうと思ったのは、高山正之がサンデルを貶してる本を書店で見かけたからである。どうせ週刊新潮連載コラムの文庫版なんだろうが、あの反動的で視野狭窄で事実をねじ曲げるのに躊躇しない高山が貶してるんだから、さぞ立派な本なんだろうと思った。そして、それは当たっていた。

 

サンデルのいう物語論コミュニタリアニズムは、全く当たっている。ほぼ、私の思い描いていた世界像と重なる。

 

ただ、問題があるとすれば、この本が出て以降、さらに多様化・グローバル化が等比級数的に拡大し、おのおのの物語の分岐が、分断という形でしか表明されていないということである。

例えば私はアイドルが好きだが、それもものすごく狭い範囲から出ようとしない。こういう、いわゆる「タコツボ化」は、もちろんアイドル以外にも有り得る。政治家はおのおののタコツボから出ようとしない。反動は反動の中だけで議論をしている。それは、リベラルだって同じだけど。

このような問題を、日本のニューアカ(≒バブル期)以降の思想家は「制度としての物語の終わり」「大きな物語の終焉」などと呼ぶのだが、サンデルもそんなことは百も承知だろう。

トランプのアメリカで顕在化したような、完全に分断されたコミュニティ(もちろん、それは日本でも他の先進国でもあることだ)を、再び繕い合わせる便法に、コミュニタリアニズムはなり得るのか?

 

もう少し、サンデルを読む必要がある。

それは、分断を促進することしか目指さない反動勢力とは次元が違う。