つんくの限界
今、必要があってモーニング娘。のCDをまとめて聴いてるんですが。
つんくの詞って、なんでこんなにつまらないのか。
と、改めて思うんですよ。
10年前、現役のハロヲタだった頃からわかっていたんですけど。
つんくの詞は国語的・文法的には何一つ間違ってないんです。ただ、歌詞としては失格。面白さが何一つない。理に適っているけど、それだけ。
絵画で説明します。
日本人は印象派が好きだから、モネ・ドガ・ゴッホくらいはわかる。日本人の印象派好きってのもかなり特殊な話なんだが、ひとまずそれは置いとく。
でも、それ以降の天才画家、例えばピカソ・マグリット・ウォーホールになるとさっぱり理解できないらしい(私は絵画が好きなのでわかってるつもり)。
つんくの詞って、せいぜいモネの『睡蓮』かドガ『踊り子』なんですよ。綺麗だけど、その先がない。
別の例を出します。
デビュー当時の宇多田ヒカル。彼女の楽曲はセンセーショナルでした。その理由の一つに、日本語と英語が脈絡なく繋がっていたことがあります。海外生活の長い宇多田ヒカルにとってはそれは普通のことなんでしょうけど、一般の日本人には新鮮だった。
その後、宇多田ヒカルは日本語が上達します。詞は普通のものになります。谷崎潤一郎の『文章読本』なんか読んだ頃です。私は谷崎潤一郎が大好きですが、宇多田ヒカルの才能にとっては危険な代物です。谷崎潤一郎の言ってることは概ね正しいですから普通の人は参考にすべきですが、宇多田ヒカルの天才は死んでしまいました。
「普通の詞」に意味なんかないんです。
確かに、理解は楽です。ただ、楽なだけです。
傑作とは、理解に苦しむものです。
例を挙げます。
古い歌で申し訳ないですが、今は歌詞サイトも発達してるので、そちらで見て下さい。
歌い出しはこうです。
よこはま たそがれ
ホテルの小部屋
くちづけ 残り香 たばこの煙
(作詞 山口洋子)
意味なんて皆無です。
でもこれ、今より遥かに権威のあった頃のレコード大賞です。
あえて言えば、エイゼンシュテインのいう「モンタージュ」的なものがある程度です。五木ひろしが三億円事件のモンタージュ写真に似てるせいで取り調べを受けたことは全く無関係です。
でもこれは、普通の作詞家には書けません。つんくにも小室哲哉にも秋元康にも無理です。それは、山口洋子が職業作詞家ではなかったからです。同じく職業作詞家でない湯川れい子が傑作を産み出したように(湯川れい子がおかしなおばあさんになってしまったことは略します)。
理に適った歌は俗耳に入りやすい。
しかし、本当の傑作、本当の天才はもっと別のところにいます。
それだったら、インディーズのアイドルが自分で作詞した歌詞の方が、遥かに可能性を感じます。
国語的にも文法的にも、何もかも間違っているけど、パワーだけはある。
そっちの方が、私には面白いんです。
又吉直樹の『火花』はその意味で普通の小説です。彼は直木賞にノミネートされて落ちるべきでした。
とんでもないところにとばっちりが行ってしまったので、以上。